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「世代間倫理」

地球を倫理学で救えるか?

前回からのトピックですが、環境倫理の3つの主張(実はものすごくいろいろな主張が存在していて、それぞれが矛盾をはらんでいたりしますが)の2番目。

世代間倫理。

つまり、世代を超えて倫理観を適用するもので、この考え方は「サステナビリティ」とか「持続可能性」という言葉がメインストリームとなっている通り、すでに受け入れられています(もちろん様々な矛盾や批判もありますが)。

未来の世代につけをまわさない、というのがボトムラインのこの考え方、例えば石油資源を考えてみるとわかります。

① 石油は有限な資源であり、枯渇しつつある。

② しかし、再生可能な資源はまだ様々なハードルのため普及が進んでいない。

③ よって、いつかはなくなると知りつつ、現在世代は石油を使っていて、つけの「先延ばし」をしている。

④ これでは、将来世代が持つ欲求(必要)を満たすための能力が減少するため、そうならないよう現在世代は今すぐ石油の使用をやめ再生可能エネルギーに切り替えることが一番望ましい。

というような考え方です。

もちろん、④の「そうならないよう...」以降は、現実的にはいろいろなオプションが検討されていますが、理論的にはこういうことです。

J.S.ミルは、枯渇性資源も事実上は無限であると考えたうえで、停止状態(例:石油を使うことを今すぐやめる)を実現しなくてはならないとしています。

「成長の限界」のベースとなったハーマン・デイリーは、3つの原則を打ち出してシンプルに説明しています:

① 「再生可能な資源」の持続可能な利用速度は、その資源の再生速度を超えてはならない。

② 「再生不可能な資源」の持続可能な利用速度は、再生可能な資源を持続可能なペースで利用することで代用できる速度を超えてはならない。

③ 「汚染物質」の持続可能な排出速度は、環境がそうした汚染物質を循環し、吸収し、無害化できる速度を上回ってはならない。

どの主張も、「なるほど」と納得はさせられるものですが、実際適用しようとすると様々な科学的根拠が出てきて、アメリカでの温暖化問題への懐疑主義とそれを支える”データ”の存在からもわかるように、残念ながら合意形成が非常に難しいのが実情です。



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ただし、こうした理論は基盤としてやはり大切。

この世代間倫理の主張は、すでに国連をはじめとする様々な国際機関や政府機関が採用する、「持続可能な開発」という概念に組み込まれています。

(ただし、この概念自体の解釈も、将来世代に意思決定能力があるか、など様々な議論が存在しています。)

これは1987年国連のブルントラント委員会報告で打ち出された方針で、「将来世代が自分たち自身の欲求(必要)を満たすための能力を減少させないように、現在の世代の欲求を満たすようにする」というように定義されています。


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地球を倫理学で救えるか? 「地球有限主義」

掲題のクエスチョンですが、これは、環境倫理学の本にあったもの(もともとは「」環境問題を倫理学で解決できるか?」というもの)。

自然保護の法政策を専門とする私から見ると、「おもしろい質問をするな」と思います。

もちろん、倫理学を専門とする人から見ると非常に大切なクエスチョンとなるのでしょうが、そこをあえて置いて置き、いきなり結論を書いてしまうと...

倫理学だけで環境問題を解決するのはもちろん無理ですし、従ってこの質問を私がされたとすると、NO と答えざるを得ません。



ただ、環境倫理学の主張する①「地球の有限性」、②「世代間倫理」、③「生物保護」という概念はそれぞれ、法政策の形成の上でも重要な役割を果たしています。

また、倫理的・道徳的・感情的な裏付けなしに環境問題に取り組むことには、限界もあると個人的には思います。



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①の環境の有限性、ですが「加害者と被害者」の構図から、地球の生態系では、すべての行為は他者への危害の可能性があるので、倫理的統制のもとにおかれている、という基本的な倫理の考え方に基づいているとされます。

地球(の資源)を有限と考え、無尽蔵に資源を消費してきたこれまでのライフスタイルの反省とも言えますが、この考えでは、地球を一つの閉じられたものと捉え、個人や国家の個別的な利益よりも、地球全体の利益が優先します。

今読むとびっくりな、ギャレット・ハーディンの救命ボート倫理も、地球を有限と見た場合に人類はどうすべきかということを考えたもの。

少人数の(具体的には先進国の人たち)生き残りのためには他の人達(具体的には途上国の人たち)が犠牲となっても仕方がない、という、今の共和党大統領候補がサポートしそうなこの理論。

これも、環境倫理学の文献を読むと必ず出てきます。

そういう極論に行かず、なんとかこの地球を共有し人類が生存していく(後者については大切でないとする論もありますが)ために。

苦肉の策とも言える理論が、②。

続きは、また来週に。




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人間中心主義と自然中心主義

前回の記事に書いた、人間中心主義と非人間中心主義(なかでも自然中心主義)の流れは、現在では「不毛な対立」であるともされています。

例えば、アメリカの自然保護思想の源泉の一つとも言われるミューアは、ヨセミテ国立公園内に計画されたダム建設に反対していますが、彼の著作を読めばヨセミテの美しい自然を守りたいということが本音であったことがわかる、とされています。

ただ、議論の上では意思決定の透明性の欠如など、プロセスを理由にしていたようです。

つまり、公の議論の場では、人間中心主義に合わせてはいた、ということでしょう。

例えば自然の生きものを原告とする訴訟が日本でも流行った時期がありましたが、そういう特別な例を別とすると、やはり、人間の作ったシステムの中では人間を中心とした話し方が一般的となるのは当然かもしれません。



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なぜ人間中心主義と自然中心主義との対立が不毛であるかについては、究極的には人間中心を否定し自然を中心に置く場合、人間も他の生物を利用して生きていくしかない以上、自然中心主義というのは人間に「生きるな」ということと同じである、という解釈があります(加藤、2005年)。

これは、確かにそうです。

例えば現在人類は地球1.5個分が必要な生活を送っているとされます(WWF)。

単純に考えると、やはり人間が地球の生物に過剰な負荷を与えていることになり、地球を中心に考えるならば(人間がその中に含まれるのか否かという点がこれまた議論となりますが)、人間はいない方がよい、ということになってしまいます。

ところが、生物学上は、自分の所属する種を優先させることは生物として自然な法則であり(全般に私も環境倫理学が専門ではないので用語が間違っているかもしれませんが)... これも、「自然界の法則」と呼べないこともなく...

などなど、たくさんの批判や分析が存在する、大変複雑かつ難解なトピックです。

ただ、一つだけ言えるのは、自然中心主義が人間中心主義への反発として生まれたこと、そしてそれが環境保護運動を後押ししてきたこと、これは間違いありません。

また、個人的には、自然を美しいと感じる気持ち、これは多くの人にとって自然な感情であり、そのことを理由に自然を保護したいと思うこと自体が、批判されるというのはおかしなことでもあると思います。

こういう流れを経て、自然の中に人間を含めたうえで保護論を展開する、というのが今の主流スタイル(表向きは)となっています。



参考サイト

http://www.wwf.or.jp/earth/


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なぜ自然を守るのか?

少し間が空いてしまいましたが、本日のトピック。

前回の記事とも関連しますが、環境保護とは、なぜしなければならないのか、というのを、環境倫理の視点から見ると、大きく二つの考え方があります。

相反する二つなのですが、一方では人間生存のため、つまり、人間が生きていくうえでは自然資源が必要であるから、という考え方。

人間中心主義(anthropocentrism)と呼ばれます。

もう一方の考え方は、この反対ですから、自然中心主義(ecocentrism)。

人間にとっての価値には関係なく、自然には「内在的な価値」があるとする考え方。

ただ、「価値」という概念そのものは人間の概念ですから、ここには少し複雑な哲学や倫理の議論が存在しています。



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自然中心主義の考え方は、かなり先進的で社会的には幅広く受け入れられないように見えますが、実は国際条約などでも認められている考え方。

生物多様性条約の前文にも、ちゃんと盛り込まれています。

「締約国は、  

生物の多様性が有する内在的な価値並びに生物の多様性及びその構成要素が有する生態学上、遺伝上、社会上、経済上、科学上、教育上、文化上、レクリエーション上及び芸術上の価値を意識し、

生物の多様性が進化及び生物圏における生命保持の機構の維持のため重要であることを意識し、

・・・・・・・・・」 (生物多様性条約 前文より 筆者下線)


この、環境倫理について記事を続けてみます。

よければおつきあいください。



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